12 週末の華金、23:55。ルーティンのように知紘は自宅にはいない。 毎週末、いや毎夜、いや……いつもいつも、知紘と女、真知子とのことに 囚われて苦しい毎日を過ごしてきた。 そして知紘の浅はかさ思いやりのなさに失望し、無力感の波に襲われ、 涙が止まらなくなった夜もあった。 だけどこの夜の美鈴は違った。森林植物園で出会った綺羅々の心からのやさしい慰めで元気を取り戻した美鈴は、 その夜何度も彼の笑顔、やさし気な眼差し、氷のように冷え切った心に温もりを 取り戻してくれた声掛けなどを、繰り返し思い出すのだった。 そして、良い意味での高ぶった気持ち、心地よさ、そんな感情に浸った。いつもなら午前様になっても帰宅しない夫のことを思い煩いなかなか寝付けず悶々と過ごしていたのに、この夜は違った。 興奮してなかなか寝付けないのは同じだったが、それは不安や嫉妬からでは なく喜びから湧き上がる高揚感からのものだった。夫の知紘が真知子という女に溺れるようになってから、美鈴はひどく夫から 粗末に扱われていると感じるようになった。 『美鈴のことが好きなんだ。 絶対一生大切にするから俺を選んで……俺と結婚してほしい』とプロポーズしておきながらのこの仕打ち。 知紘という人間は口先だけの嘘つき野郎だったのだ。 信じて付いてきたのに。この手酷い裏切りは一体何なのか。――― 意識の変革 ―――知紘が田中真知子に心を持っていかれた日からじりじりと焦りのようなもの が美鈴の中に湧きあがり、どうにか、何とかしなくちゃと気持ちばかりが 先走り地に足のつかない日々を過ごしてきた。思った以上に自分は夫の言動にダメージを受けているようで。不意に涙が出てきたり、自身の無価値観に苛まれたり、というように 情緒不安定になってきているのが分かる。けれど……とうとう、ついに、明確に、胸の奥底から湧いてくるものが あった。それは、女磨きをして素敵な女性に変身したいという願い。 自分の見た目を変えることに合わせて自分の精神的な部分の安定を 取り戻したいという想い。それは、見た目も内面も充実させて女性らしさを内包した 素敵な女性になりたいというものだった。そして自分のことをもっと好きになってこれからの人生を 豊かなものにしたいのだ。
13 潜在意識の中に、夫の心を取り戻したい、振り向かせたいという気持ちが全くないかと問われれば、全くないとは言い切れないがしかし、第一の目的の意義は自分磨きをして自分の存在価値を高めることにある、と言えた。決して田中真知子という女と競うつもりなどは毛頭ない。既婚者である夫とほいほいっ、付き合えるような薄っぺらい女と 同じ土俵になんぞ、立ちたくもない。とにかく 自信をなくしたままじゃあ、いやなのだ。 女性としての生《性》を軽やかに楽しみたいと思う。 自分が自分を輝かせるのだ。 落ち込み暗い穴蔵のようなところに留まるような 可哀そうな自分にしてはいけない。 綺羅々に会ったことが切っ掛けで自分の成すべき方向性が見えてきた美鈴だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 翌日は土曜で、夫はやはり9時頃出かけて行った。先週までの美鈴なら、誰かと会うために出かけていく夫を恨めし気に見送る だけだったのだが、この日は自分も出かけようと思っていたため、いつもの ように夫に声を掛けることさえ忘れて、自分の部屋での化粧や衣装選びに 集中していた。 ******いつものように休日に妻を家に残し、意気揚々と真知子との待ち合わせ場所 へと出かけるため、家を出た知紘は無意識のうちに❔マークが脳内を駆け巡 った。『アッ……』そのものの正体にしばらくしてから気付いた。 美鈴の『いってらっしゃい』がなかったことに。 とうとう、あからさまに怒りを顕わに出し始めたのだろうか? 帰宅したら、確かめてみよう、そう思った。 まさかの、自分の存在が妻の中で小さくなってしまっているなどと…… スルーされたなどと思いもしない、おめでたい知紘だった。
14 それから1時間後、美鈴も自宅からそう遠くはないショッピングモールへと 軽やかな足取りで向かった。 独身の頃は常時塗っていたマニュキュア。 早速ピンクパールのマニュキュアをショッピングモールに入ってる専門店で購入。 行ったついでにファンデーションも今使っているのと同じメーカーのもので 少しグレードの高いのをGet. そしてネイルに合わせて顔にもパールを少し入れようと思い、 白いパールの粉を買ってみた。 ここ数年サンダルからも遠ざかっているので、好みのサンダルを 見つけたこともあり、それも買った。知紘のことではなくて、自分磨きのための買い物をすることに集中して 過ごした時間は、美鈴の気持ちを軽やかにした。買い物から帰ると、疲れたので横になり少し寝た。どうせ夕飯時に夫は帰ってこないだろうから、という気楽さがあり 起きたら22時にもなっていた。 モールで自分用に買ってきたバーガーとサラダにコーヒーを淹れて食べ、 しばらくファッション雑誌に目を通したあと、入浴を済ませた。 その間もずっと美鈴の頭の中にあったのは、どんな夏服を 買おうかということだった。 それ《自分磨きのための検討》は部屋に戻ったあとも延々続き、日曜はたくさんの客で混みやすいため、月曜に美容院へ行き髪型を変えようという試みだった。 節約して美容院へも最近は行ってなかったのだ。 スキンケア―のクリームやシャンプー&リンスもいいものに変えて、 スベスベお肌とキューティクルのできるヘアーにするべく頑張ろうと決めた。 こんなふうに自分磨きに集中していたため、午前様になっても帰らぬ 夫のことなどは気にならず、日が変わる頃本格的な就寝の体制に入った。 まどろみつつある美鈴の頭にあったのは、一通り頑張った成果が出た頃、 綺羅々に会いに行きたいな……ということだった。
15その後うっかり、いつものように夫を玄関ホールに立ち見送るということを せずに、出ていく夫を意識せず奥の部屋から『いってらっしゃい』と声掛けしてしまったことがあり、美鈴はあとでそのことに気付いた。 これまでずっと夫が出かけるときは必ず玄関ホールまで行き見送ってきた。 それは心の表れであった。大好きな夫だから、自然とそういうふるまいになっていたのだ。 最初の見送り損ねた日の翌日、夫からそのことについての非難はなかった。真知子のことで頭がいっぱいだから、妻の見送りなぞ必要ないし、 気にもしていないのだろう。……ということで、その後、夫が出掛けるときも帰宅したときも 美鈴は奥の部屋から声を掛けるようになった。そう、自分らしく無理なく本音で生きていこうと思ったのだ。しかしながら、心の片隅では『最近はお見送りがなくなって寂しいなぁ』くらい言ってくれれば、と思わなくもない自分もいた。 最近、金曜と土曜は必ずと言っていいほど知紘の帰宅が午前様になっている。なのに、今週の土曜は珍しくほろ酔い加減ではあるけれど 24時前に帰ってきた。 私はちょうどベッドに入り、掛け布団を掛けて寝るところだった。知紘が寝室に入り私のベッドに腰掛けて私の両肩に手を掛けて 『ただいまぁ~……。あっ、いい香り~だぁ~』 と言い抱きしめてこようとする気配を感じ、私は肩から彼の手を剥がし、 すぐさま声を掛けた。 「汗してるみたいだから、先にシャワーしたほうがいいわよ」「そだね、シャワー行ってくるー」 そう言い置き、彼は浴室へと向かった。 『いい香り……』分かったんだ。素敵な女性になるために行動したひとつのことはちゃんと効果があったのだ。香水ほど強烈な香りじゃないけど香りのついたボディクリーム、 効果ありだったことが確認できた。 私はベッドの上で『よっしゃぁ~』のパフォーマンスをしたあと すぐさま、頭から布団を被り眠ることにした。 うとうとしかけた頃、知紘が寝室に戻ってきた。『さっぱりしたぁ~』と言い、腰掛けたのが気配で分かる。少しして「美鈴……」と声を掛けられる。 そして掛け布団が捲られた。やばいっ、貞操の危機が《危機じゃんっ》……。 真知子とあんたを共有する趣味はないんだよっ。「う~ん、チ―ちゃん、私インフルエンザにかかってるかもしれ
16以前、職場にいる30代の既婚者に聞いた話では、酔っぱらって帰り、 寝ている奥さんの……寝込みを襲ったことがあると聞いたことがあるのだ が、知紘がそこまでの鬼畜じゃなくてよかった。ひとまず私の貞操は守られた。土曜日深夜のとっさのインフル発言。 本来なら夫の目を気にして日曜日はベッドから抜け出せないところだが……。知紘は相も変わらずトットコと、誰かさんとの逢瀬のために出掛けて行ったので、美鈴は大手を振って? いつも通り自由に自宅警備員を堪能することができた。自宅警備員と言っても家事のみの生活ではない。知紘の怪しい動きに振り回されて心乱され、ここのところはそれどころでは なかったのだが美鈴は元々芸大に進学して、就職活動でイラストレーターが 集まる会社に入り、結婚を機に退職し、現在ではフリーでクリエイターが 登録しているサイトで仕事を受けている。フリーなので月収はマチマチである。 フリーで10万円以上稼いだことは今のところない。そう、仕事のことをぼちぼち考えないとなぁ~と切実に思うのだった。今はいいけど、もしもシングルで生きていくとするなら イラストだけでは食べていけない。自分自身を輝かせたあとは、今後の生活設計も考えていかなければならない。知紘に離婚を言い出されてはいないが、この調子だと早晩 言い出してくると考えるのが妥当だろうから。
17 知紘はなんとなくだけど、近頃美鈴の纏う空気感が変わったように 思うのだった。何気に感じた違和感……なんだぁ? 真知子にばかり気を取られていたのですぐには分からずにいた。だが、いつもと何かが違っているような気がするのだ。そして、鈍感な自分はその違和感の正体である『いってらっしゃい』との 見送りが無くなったことに、何かがおかしいと感じた日から2日過ぎて 気が付いた。 美鈴は俺が会社に行くとき、これまでなら必ず玄関ホールまで出てきて 『いってらっしゃい』と言って見送くってくれていた。改めて翌日、意識して確認してみた。リビングから聞こえる『いってらっしゃい』の声掛けに、3日目の朝、 今度こそ違和感の正体にはっきりと気付いた。妻が見送りに出てこなくなったことに。 今朝の『いってらっしゃい』の声は明るいものだったが、今まで 自分に掛けられていたような愛の籠ったものではなかった。それとともに、よくよく振り返ってみれば昨夜の夕飯の献立も 今朝の朝食の中身も、心が籠ってないように感じられるものだった。いつもの手作りだったはずのサバの味噌煮は、シンクに缶詰の缶が 転がっていて……なんとサバ味噌煮の缶だった。なんだかいつもと少し旨味がちがうなぁ~などと思っていたらこ のザマだった。昨夜の味噌汁ももしかするとインスタントだったかもしれない。 朝、今まで目にしたことのないインスタントみそ汁の袋が置いてあったから。 知紘がそういったことに気付いた日から以後、昔のように手作りされた献立は ほぼほぼ食卓に上がることはなくなってしまった。
18 美鈴より5才ほど若い田中真知子に夢中で何も見えてなかった知紘が、 ここにきてようやく妻の言動に変化がみられることに気付いた頃…… 美鈴は1年前に会ったきりの高校時代の友人、原口絵里に会っていた。現在美鈴も絵里も29才。絵里は今も独身で、26才~28才までの2年間一つ年下の男性と 付き合っていた。 相手の男性は頭のよい穏やかな人だと話してくれたことがある。28才になってから絵里は、その彼に何度か30才になるまでには子供が ほしいなどと、結婚を促すような話をほのめかしてたりしていたのだが、 彼からはその都度結婚話をはぐらかされ、結婚話は頓挫しているのだと…… 昨年会った時に、美鈴はここまでの話を聞いていた。 自分は絵里が苦悩していた頃、結婚してからずっとラブラブの知紘との 幸せな生活に浸っていて、今一つ気の毒だとは思うものの、彼女の件 《不幸話》に対して他人事でしかなかった。 その後、絵里の婚活はどうなっているのだろう。恋人と破局したとは聞いていないので、おそらく結婚の話をひとまず 先延ばしにして付き合っているのだろう。 絵里の恋人との結婚について、そんなふうに考えつつ、あぁ~私は前回絵里と 会った時からなんて自分の生活が180度変わってしまったのだろうと思うに つけ、去年の12月に戻りたいと思ってしまうのだった。 今日は絵里の恋人との話を聞いたあとで、少しは自分の痛い話も聞いて もらおうかな、などと思いながら美鈴は待ち合わせ場所に向かった。 絵里とは行きつけのカフェで15時から待ち合わせをした。 私のほうが先に着き、席を取り待っていた。 スマホでYoutubeの画面の中の文字を追いながら時々、入り口方向に 目を向けまだ絵里が来てないことを確認。 そのあとも何度か入り口方向を見てYoutubeの文字に目を落とす。そしてまた入り口に……と顔を上げると、目の前に笑顔の絵里の姿があった。
19「ごめんね、お待たせ~」「大丈夫よんっ」「わっ、美鈴痩せたね~。幸せ細りなんて羨ましい限り」「そんなこともないけど……」「何年振り?」「1年振りになるのかな」 久しぶりに会う絵里の表情は殊の外明るいものだった。「それにしても暑いよね」 そう言って椅子に座った絵里は私の飲み物に視線を向けると……。「あっ、私も美鈴と同《おんな》じのにしよう」 そう言うとアイスオーレを注文した。 「絵里、雰囲気変わったね」「でしょ?」否定しないんだ。彼とはその後上手くいってるんだ? と訊いてみたい ところだけど、ひとまず私は堪えた。「うん、明るくなっていい感じよ」「去年会った時はかなり落ち込んでたからね。 早速っていうか、あの彼との話の続きなんだけど……」 「何か進展あった?」「それが……」 そう言うと絵里は息を大きく吸ってゆっくりと吐いた。 「2~3回だったかな、それとなく結婚のことを考えてくれないかな、 みたいな話を持ち出したのは。あぁ、ここまでの話は前回もしてたよね」 「うん、はぐらかされてばかりって聞いてたね」「彼の態度はどういうところから来てるんだろうってずっと考えてたの。 結婚の話題が出るたびに有耶無耶にする態度……って。 いろいろな理由が絡みあってるんだとしても、一番根っこにあるのは私なら、待たせておけるっていう彼の中にある自信っていうのかな。 それか最悪、彼の結婚適齢期ギリギリまで私を待たせている間にもっと良い 女性が現れたら乗り換えるっていう可能性を潜在的に持っているかもしれないって……いうことなのかな、とか。 まぁあれから、いろいろ分析してみたんだけど」「……」「言い方は悪いけど、私の存在なんてその程度で、ある意味舐められてるんだなっていうところに辿り着き……そしたらあんなに彼に対して結婚しようよって思ってた気持ちがス―っと引いていったのよね」 「そうね、話し合いの土俵にも乗ってこないというのは酷いよね。 誠意がないかな」「それでね、彼に期待するのは止めて婚活でも始めてみようかなんて考えて、真剣にどこかの結婚相談所に申し込みしてみようかといろいろ探してた時に……」 「……」
82美鈴と圭司夫妻は、結婚して2年後に娘を授かった。そして、そのまた2年後に息子を授かり、彼らは4人家族となる。結婚後、立て続けに2人の子供に恵まれた美鈴は、元々在宅仕事をしていて融通が利くため、下の子が4才になるまでほぼ専業で暮らした。なので、贅沢はできなかったが、休日になると圭司が子育てや家事をできるだけフォローしてくれ、ストレスが溜まりがちな子育ても楽しみながらでき、2人の子供たちに思い切り愛情を注ぐことができたことは、非常に喜ばしいことだった。そして、いつも美鈴のことを気遣い子供たちにも愛情をたくさん注いでくれる圭司との暮らしは、美鈴にとって夢のようでもあり理想的な人生となった。好き合って結婚した相手から裏切られるという経験をしていた美鈴は、再婚にあたり実は少し不安を抱えていた。どんなに誠実な人でも心というものを持つ人間には、心変わりというものが常に付きまとい、誰がいつ新しい出会いで気持ちに変化が訪れるのか、誰にも分からないものだから。 ***やがて、子供たちそれぞれに愛する人ができ、彼らが家庭を持った時、美鈴は感慨い深いものを感じた。私と夫はまだ今でも信頼し合い愛情を持って一緒にいられる。これは本当に幸せなことだわ、と。そして、家から子供たちが巣立ち、また元の2人の暮らしに戻り日々の暮らしを積み重ねる日々の中で、1日また1日と夫と仲睦まじく過ぎてゆく日々に感謝と喜びを胸に刻み続けるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇そのようにして2人の愛しき人生はその後も続き、85才で圭司は天寿を全うし、美鈴もあとを追うようにして2人の間にもうけた息子と娘に看取られて、88才老衰で長患いすることなく別の次元へと旅立っていった。 ――――――――――――――――――西暦2022年からお話は始まっていますので、根本圭司が亡くなるのは――2077年頃 根本美鈴が 〃 2075年頃 すごいっ、どんな世界なのでしょう。 ――――――――――――――――――
81大好きな男性《ひと》の肌に触れ続けていくうちに、声にして出《だ》そうなんて思ってもみなかった言葉がいつの間にか零れ落ちる。「あなたが赤ちゃんだった頃、ヨチヨチ歩きを始めた頃、たどたどしく話ができるようになった頃、運動会で走っている姿、学生服を誇らしげに着ている姿、大学生のあなた……どのあなたも見ておきたかった。私を見つけてくれてありがとう」そう告げながら美鈴はいつの間にか圭司の背中に全身を預けて、そして泣いていた。この時の美鈴の心情は、恋人としてだけではなく母性の加わった母親でなければ感じられないような域にまで達していた。それまで美鈴の下で心地良さとともに美鈴の重みに耐えていた圭司が美鈴を抱きかかえるようにしてグルリと身体を動かし2人の位置が反転した。圭司が美鈴を組み敷いた格好になり、美鈴の目に溜まる涙を親指の腹でひとすくいしたあと、近くにあったティッシュを渡してくれた。「ありがと。君のやさしさが心に染みたよ。幸せなのにすごく胸が苦しい。この苦しさを解放したいな」そう言うと圭司の口付けが、美鈴の顔の上に落とされ、やがて口元へそして最後に唇へとやってきた。幾度となくはまれ、ついばまれ、美鈴は切なさと喜びが綯《な》い交ぜになり何も考えられなくなる状況の中、されるがまま圭司の行為を受け入れた。この夜のことは、二人にとって生涯忘れがたく素晴らしい時間になったことは言うまでもない。このようにして、この旅で互いの絆をより一層深めて帰路についた2人は、バタバタとその後、それぞれの遠方に暮らす両家の親に挨拶に行き、結婚式も挙げず記念撮影のみで籍だけ入れて結婚を済ませた。
80 「有難いけど……君よりデカい僕の身体を抱くのは難しいんじゃない?」 「そうなの、そこが大問題なんだけどでも抱きたい。 どうしたらいいかなぁ~」「じゃあさぁ、取り敢えず君の前に滑り込んでみようか」「うん」 『馬鹿だなぁ~そんなの無理だよ』とか一刀両断せずに、協力してくれる 彼に私は増々恋心と切なさとを募らせた。私の両脚の間に座った……座ってくれた彼、疲れるだろうに程好い加減で 私に半身を預けてくれる。 到底私が腕を回しても両手を組めそうにもない彼の身体を後ろから抱きしめる。 私は彼の逞しくてきれいな肌の背中に顔を埋《うず》めてみる。「いい匂い……石鹸の匂いがする」「いい気持ち、背中でいい気持ちになったのは初めてだよ」「「ふふっ」」 「ありがと。この体勢だと圭司さん疲れるでしょ。 あのね、ほんとに気持ち良くなってもらいたいから今度はうつぶせ寝に なってください」私がそう言うと、うつ伏せの体勢になるため起き上がった彼が、座っていた 私の手を取り、立ち上がらせてくれた。 そして「じゃあ僕も少しの間ハグさせて」と言い、私はしばらくの間 彼に抱きしめられた。そしてそのあと、彼はベットに横たわりうつ伏せになった。「えーっと、今から私がすることって私にとっても初めてのことだという ことを知っておいてください。他の誰にもしたことがないことをさせていただきます」 『誰にでもするような変な女と思われたくなくて先に断りを入れた』「うん」圭司さんは俯いたまま返事をくれた。 今からしようとすることを考えると、こちらに視線を向けられなかったこと は有難かった。私は彼の腰辺りの位置に両膝をついて彼を愛でていくことにした。まず彼の肩から腕にかけて何度も両手で撫でた。背中、腰にも手を延ばし、マッサージを続ける。 「気持ちいい……」と言う彼の呟きが聞こえ嫌がられていないことを知り、 続けてそのまま愛でるように首筋から始まり腰までを、何往復も両手で緩急 をつけマッサージを続けた。
79◇その時がきた私たちはこれまでのようにまったりと2人の時間を紡いでいた。いつも会っている時は彼の存在を感じて幸せだった。そして別れ際におでこに軽いタッチのキスを落とされたことは二度三度あったけれど、そこ止まりの付き合いが続いた。そうそれは、まるで学生のような清い付き合い方だった。そのせいか週末会える時は、1週間分のトキメキとドキドキ感が半端なくいつかその日を迎える日がくれば、自分はどうなってしまうのかと不安を感じるほどだっだ。そんな中、いつものように近所回りを散歩して私の畑に差し掛かった時、圭司さんからゴールデンウイークに海外への旅行を誘われた。国内をすっ飛ばしてのいきなりの海外旅行に少し驚いたけれど、うれしかった。3泊4日くらいで行くことになり、私たちはその日を楽しみにお互い仕事や家事を頑張りその日を迎えた。――――――――――― 初めての夜 ―――――――――――旅行先の1泊目はお疲れ様タイムということで嘘のようだけど、友だち関係のように長年連れ添った夫婦のように疲れをとるため、お休みのキスだけをして静かに 就寝した。そして翌日はクイーンズタウンで観光を楽しみ、早めにホテルに戻った。今宵こそは私たちにとっての初めての夜で暗黙のうちに迎えた瞬間、その時はきた。 ◇ ◇ ◇ ◇先にベッドに入っていた圭司さんからシャワーを終えたばかりの私は『おいで』と手招きされる。私はドキドキしながら彼の横に滑り込む。彼がすぐに手を握ってくれた。「こっち向いて」「何か恥ずかしい」そんな言葉を口にしつつも私は言う通り彼の方を向いた。するとゆっくりと彼の口付けが私の唇に落とされた。それは軽くそして深く、互いの唇が重ねられていく。彼が私を見て微笑んでくれ、このタイミングを逃さず私は自分の切なる望みを口にした。「私、あなたを抱きたい《肌を合わせたい》全身全霊で」
78引き続き、2月も畑を耕す作業は続いた。そして今日も、私は相変わらず彼が耕運機で再度作業している横で、チマチマと畑の端で雑草抜きをした。今日もこのあと2人で夕飯を摂る。朝のうちに仕込んでおいた炊き込みご飯とお豆腐とネギ、ワカメ入りの味噌汁、さわらの塩焼き、きゅうりとわかめ、おじゃこの酢の物が作業後に待っている。耕運機から降りてきた圭司さんと雑草を一通り抜き終えた私は「「お疲れ様」」と互いに声を掛け合った。しばし、私が空気の冷たさに手をこすっていると、彼が上から大きくて暖かい両手で包み込んでくれた。「えーっ、あったかい。どうして?」恥ずかしさを隠して私は彼に訊いた。「子供のように身も心も純真だからだよって言ったら聞こえはいいけど、心が単に子供なんだよ」「あっ、分かった。幼稚ってこと?」「そういうとこ……」話ながらいつの間にか、私はすっぽりと彼の腕の中にいた。『ずっと、こうしてたいな……』私は何て言えばいいのか分からなくて空を見上げた。「茜色の空がきれい……。とても幸せです」そんなふうな言葉がきれいな夕焼け空に感化され、口をついて出てきた。すると、圭司さんが私の頭の上にそっと顎を乗せて「僕も……」と言ってくれた。その瞬間不思議な感覚に襲われた。宇宙からそのまま地球に向かって、地球上の畑にいる私たち恋人同士をズームインして俯瞰されている気分になる。その視点は私の肉体を超えた存在だと感じる。初めての体験に私は心震えたのだったが、このあともっとすごい感覚を体験することになった。もともと根本さんには好感を持っていたし、自分たちが今生結ばれる縁だと知らされてからどんどん好きになっていったのは確かだけれど、一緒に夕飯を摂っている時にそれは……その感情は突然訪れた。私の心の臓が、もとい、私の心臓が俄かに騒がしくなってきたのだ。根本さんの食事をしている様子を見ているだけで恋しい気持ちが募り、そのあまりの気持ちの強さに私は落ち着きを失くす。彼を抱きしめて……頭も肩もその背中も腕も、全て自分のものにしたいなどという、襲ってしまいたいという欲情に付き動かされることに。こんな怖ろしい初めての自分《私》の感情など知る由もない彼は、いつもの通り紳士的な振る舞いで時をやり過ごし、車で帰って行った。どうしてこうなった
77 年が明けて1月は寒かったので、どちらかの家で過ごすことが多かった。そんな中、ドライブを兼ねてお寺巡りなどもした。そして2月の初旬の土曜日にはウォーキングをして、なまった身体を引き締めようということで、寒い中、その辺を散歩することになった。7~8分歩くと、ちょうど草ぼうぼうになった我が家の畑の側を通ることになる。足を止めて、私は根本さんに言った。「ここ家《うち》の畑なんです。数年前までは母の知り合いに野菜を栽培してもらってたのですが、その方もご高齢で足腰が弱ってきて作れなくなってしまって……。そのあとは若い人の知り合いもいませんでしたし、私もここからすぐに通えるようなところに住んでなくて、その上、そのあと父が亡くなり母親は再婚して遠方へ嫁いで行き、というようになって、結局畑は今のような状況になってしまいました。でも落ちついたら少しずつでも野菜を作ってみたいなぁなんて考えてはいるんですけど、広くはない畑ですがそれでも私一人だとちょっと手に余りそうな感じです」「野菜をもう一度作るための土にするのは手作業だけではできないですからね。家に車で運べる小型の耕運機があるので今度持ってきますよ」この日そんなふうに言ってくれた根本さんは翌週、約束通り畑まで運んでくれてその上、自ら畑をその耕運機で耕してくれた。今年は畑の回復を目指し植え付けをせず、自宅の庭や公園などで拾ってきた落ち葉を梳き込み除草剤は使わずに定期的に耕していけば、雑草の根も繁殖せずに秋には枯れた形になり、土と落ち葉も撹拌《かくはん》されるので来年は良い土壌になるんじゃないかと考えている。ということで、植え付けは来年までのお楽しみだ。何を育てようかなと考えるだけでもあぁ楽し。こうして1月のデートは畑の土壌作りに終始した。そして作業終わりには我が家でのまったりお家ごはんに会話タイム。
76私は翌日早々に離婚届を出しに行った。昨夜、よほど根本さんにもう夫から離婚届を受け取っていて、あとは出す だけであると話そうかと思ったのだが、やはりちゃんと届けを出したあとで 正式に離婚し、何のしがらみもなくなってから伝えた方がいいように気が して、話せていない。できるだけ早く伝えたいという思いから、離婚届を出した後すぐにメールで 伝えようかとも思ったけれど、これってメールで伝えるようなことじゃない ような気がするのよね。それで年内に話すことができればいいのにとうじうじ考えていたら、数日後 に根本さんから『除夜の鐘を聞きに行きましょう』とのお誘いがあり、何と か今年中に報告できそうな予感。大晦日になり、私たちは約束通り近隣のお寺《本能寺》に向かった。歩きながら道々、私は真っ先に 「実は先週夫の所へ行って離婚届を受け取り、月曜日に市役所へ行き、 出してきました」と、離婚が成立したことを話した。 「ちゃんと受理されましたか?」「はい、思ったよりあっけなかったです。 家を出た時は、いつかはっきりと離婚が決まって届けを出す日がきたら、 未練なんてこれっぽっちもなくても、多少感傷的にはなるのかもしれない って思ってました。けど、そういう感傷的になんてちっともならなくて、さっぱりとした気持ちむで役所から帰って来れました。たぶん根本さんのお陰だと思います」「なら、良かった。 じゃあ今からあなたのこと、下の名前で呼ばせてください」「はい」「美鈴さんも僕のことは圭司《けいし》と呼ばないと駄目ですよ」「はいっ、が……頑張ってみます」「うれしいです。あなたにしがらみがなくなって。 これでお天道様に恥じることなく付き合えますからね」「はい……」私は心の中で彼に謝罪した。『ごめんなさい。一度、他の誰かと結ばれてしまった身で』と。これは心の中でずっとこの先も思い続けると思う。だけど、彼に言うつもりはない。 こんなことを言ってしまえば、彼を嫌な気持ちにさせるだけだと思うから。 私が結婚する前に私たち、出会えれば良かったのに。だけど、欲張ってはいけないのかもしれない。 出会えてなかったことを考えてみれば、こんなふうな再会になったとはいえ、 今生で今からでも夫婦になれるような形で出会えたのだから。 しみじみと感傷に浸
75 ―手かざしビジョン2 その昔身体を重ねたことがあったのか否か―知紘のところへ離婚届を貰いに行った日は、勤め人の知紘の都合でクリスマスイヴになってしまった。翌クリスマスには、根本さんを自宅に招待して手作りの苺ケーキとコーヒーでクリスマスを祝うことにしていた。根本さんが訪ねてきたのは夕方近くになってからだった。彼はケンタッキーフライドチキンを抱えて現れた。「これ、後で一緒に食べましょう」「わぁ~、ケンタッキーフライドチキン、うれしいっ。でもイブもですが今日なんてすごく混んでたんじゃありません? 何だか申し訳ないです」「実は前々から予約してあったので取りに行って受け取り清算するまで10分ほどでした」「ありがとうございます。あとから、レタスやトマトのサラダを付けてお出ししますね。ケーキで結構お腹膨れてしまうと思いますから」私たちは椅子に座り、2人きりのパーティーを始めた。テーブルにはケーキとコーヒー、そして定番のみかんなどを並べて……。「「メリークリスマス!」」ケーキを食べ終えたあと、私たちは古の2人の気持ちに少しでも繋がることができればと、少しの間、手と手を合わせビジョンを視た。美鈴はこの頃からある疑問を持っていた。大層好き合っていた自分たちは、その昔身体を重ねたことがあったのか否か。一度めのビジョンでは別れの抱擁だったのか、2人が抱き合い悲しみに暮れているシーンで静止画のように見えた。そして2人の深い悲しみが心の中に流れ込んできた。そして、今回は少し遡った時間軸のシーンのようで、肩を並べて仲睦まじく語らいながら散策しているシーンだった。見ているとふたりの互いに想う気持ちの強さが心の中に入ってきた。
74知紘からのメールの返信は翌日返ってきた。そこには『なるべく早く出せるように善処します。来てもらうのは土・日になるので、再来週の土曜か日曜に取りに来てください』とそのように書かれていた。厳密に言うと美鈴が家を出て70日足らず。まだ3か月も経っていない。短期間であっても夫も何か思うところはあったのかもしれない。どうか、このまま夫の気持ちがぶれないようにと願いながら美鈴はその日を迎えた。 ◇ ◇ ◇ ◇この日の美鈴の出で立ちはというと、オーソドックスな黒のロングコートと足元は同じく黒色のハーフブーツ。手にはショートの持ち手の付いた同系色のバッグ。その真ん中には白うさぎのワンポイントが施されていた。インナーはスカート部分がフレアースカートになっていて膝下まである長袖ワンピースでベージュ色。そしてヘアーはというと、ふるゆわパーマをかけておりいい感じにお洒落なセミロング。知紘との生活では久しくこのような独身者のように見える華やいだ姿は見せていなかったかもしれない。実際、久しぶりに自宅に戻った美鈴とリビングのテーブルセットで対面した時、綺麗に着飾り華やいで生き生きとしているしている妻を見て知紘は驚きを隠せなかった。だからか、自然と言葉が口について出た。「誰かいい奴できたとか?」「とんでもない。私はそんなにたった2か月やそこらで誰かに口説かれるほどモテないわよ」「どこに住んでるんだ? 働いていないのに生活、大丈夫なのか? 今日少しだけどお金おろして来てるから、持っていけば」「ありがと。正直助かります」私はお礼を言ってお金を受け取り、知紘が用意してくれた離婚届も一通り目を通すと両方をバッグにしまった。早くに記入してくれて助かったわ。じゃあ、もうこれで会うこともないと思うけど、元気で」「あぁ、美鈴も」台所には小さな片手鍋にうどんの鉢、箸にお玉などがシンクの中に置いてあるのが見えた。カップ麺ばかり食べず、少しは自炊をしている様子が伺えた。嘗ては愛する夫のために腕を振るったこの台所に、夫自身が使った器具と食器が置かれている光景が不思議に思えた。それとともに自分が大きな感情の振れ幅もなくここにいられるのは、根本さんというこの先自分の大きな後ろ盾となるであろう人の力かもしれないと思